カフカ新訳から放浪の美学へ――池内紀が言葉に託した自由の真実
ドイツ文学研究者としての彼の名を不滅のものにした金字塔が、白水社から刊行された全6巻に及ぶ『カフカ小説全集』の個人完訳である。フランツ・カフカといえば、不条理で陰鬱、難解極まりない実存主義の先駆者というイメージが長らく定着していた。しかし、彼はその重苦しい先入観を鮮やかに覆してみせた。
彼が目指したのは、カフカのテキストに潜む乾いたユーモアや、日常の奇妙なズレをそのまま日本語に移し替えることだった。過剰な装飾を削ぎ落とし、簡潔でリズム感に富んだ文体で紡がれた新訳は、カフカを決して遠い孤高の天才ではなく、身近でどこか愛嬌のある語り手として蘇らせた。単独で全集を訳し切るという超人的な作業の裏には、重厚長大を尊ぶ従来の翻訳スタイルに対する静かな反逆と、原典が持つ生の息遣いを届けたいという純粋な情熱が宿っていた。この個人訳の達成は、日本の翻訳史において今も燦然と輝く転換点として語り継がれている。