信長の娘・徳姫の悲劇の真相とは?夫を死へ追いやった訴状の謎
天正7年8月、事態は破滅的な結末を迎える。家康の手によって築山殿は遠江国佐鳴湖畔で殺害され、信康は二俣城へ幽閉されたのちに自刃を命じられた。享年21。将来を嘱望された若き武将の命は、あまりにも唐突に絶たれた。
ドラマや小説では、徳姫と築山殿の激しい女の闘いが破滅を招いたと脚色されることが多い。しかし、同時代の手紙や記録を丁寧に追うと、感情のもつれ以上に「武田と織田の狭間で揺れる三河領主たちの保身」が浮き彫りになる。信康の周囲には武田への融和を模索する勢力が確かに存在し、家康は同盟維持のために我が子を切り捨てる冷徹な決断を下さざるを得なかった。夫と姑を同時に奪われた徳姫の胸中は、どのような絶望に満ちていたのか。彼女自身もまた、政争の渦中で命を脅かされる極限状態に置かれていた。